2月24日木曜日 写真家トニ・ヴィダル私邸に伺う

 

  10時少し前、床を抜け出すと、朝食を薫が作りにかかっていた。いつもより分厚く切ったジャムトーストと小さいカップCCL。薫は結構な食欲で4枚食べた。Pacoのテープを少し聞いたのち、市場に出かける。

 

  外は朝方雨が降ったらしく、濡れて少し乾きかかった舗道と、むうんと暖かな大気。今日は清掃日なのか作業員の人達が何人かでそれぞれの担当地区のゴミや汚泥をさらっていた。市場は天候が悪いためか、かなり人出が少ない。いつもはこの時間(11:30)だと人が結構混んで道が狭くなる感じがするのに。愛想のよい海老屋のおばちゃんの店も今日は客がいない。我々がムールを買いにゆくと、綺麗にセットされた頭を出し、にこやかに注文を聞いた。今日はどこも流行っていないが、特にこの貝や海老を扱う店の周辺はおそろしく人が少ない。というか、このおばちゃんの店でさえもたまにぱらぱらといるだけで、他の店は全く人気なし。我々が買っている時も右隣りの貝屋のお姉さんがやることがないので、山盛りにされたあさりを端から掬い上げてはじゃらじゃらと落としていた。

 

  薫はDespojo屋の写真を立ち止まっては撮りにかかっていた。パエージャをするための鶏を購入。心なしか、古く見えたが、家へ帰って開けたら匂いがするほどでもなかった。

鶏の解剖の仕方〉

  1. まず首を落とし、更に頭を落とす。
  2. 次に肛門を落とし、レバーをちょんぎって身体を2つに割って(手で両側に開いて)下の方からじょきじょきとはさみで真っ二つに切る。
  3. 股関節をのばし外して、はさみで切り、足を外す。
  4. 足の先を切り落とす。
  5. 手羽を落とす。
  6. 本体2つになったものをそれぞれ更に2つに切り、4つにする。
  7. 先の爪を落とす。

 

  この鶏屋さんでは親切にも首・肛門・レバー・足先をまとめてビニールでくるんでくれる。これで完了。

 

  香辛料屋では、相変わらずおばちゃん達がごちゃまんとたむろしており、くるみが「¿Quien es urtima?」と聞いたので、スペイン語がわかると思ったのか、くるみのあとの番のおばさんが何事かを伝えようとした。よくわからぬ顔をしていたら前のおばさんに言っていたところを見ると、どうも順番とっておいて、ということだったらしい。このあとも、皆で私の次がこの人でその次があの人で、というように、順番のことだけを皆でわいわい確認し合っていた。相当な念の入れようである。これでは、ちょっと割り込んでくる奴がいたら、これら背は低いが、やり手そうなおばさん達にさんざんにやっつけられるに違いないと思った。

 

  今日もにんにく売りのヒターノの女性、他石けん売りのヒターノの男の子(青年)が順番待ちの客に話しかけていた。しかし、くるみには声をかけず。にんにく売りと言えば赤いネット入りにんにく(25個程入っている)を両手に持ち、通りすがるおばさんに「いりませんか!どうですか!」というふうに活発に声をかけていた少年(ヒターノであろうが少し顔つきが違った)は、まだ声変わりもせぬ子供なのに、仲々歯切れよい売り方であった。大した度胸だけど売れないのかな、と思っていたら、順番待ちをしているとき、「¡Urtimo!」と叫び、片手ににんにくの詰まったネットを掲げて勢いよく走っていった。どうも1ネット売れて残り1ネットになったらしかった。幼いのに肝の据わった声といい、物慣れた仕草といい、大した小僧であった。あとから薫に聞いた話では、どうもおしのマネをして売ったりしていたようであった。

 

  香辛料屋ではサフランを買ったが、家に戻って開けてみたら、カラー・コンディメントであった。明日また取り替えに行かねばならない。雨が降りそうなので、急ぎ足にてアパートに戻る。さっそく鶏を骨と皮と身に区分。薫はCaldo(温スープ)を作るため、首と足を鍋に放り込み、本当にあるのかどうか疑わしく思い乍ら聞いたhueso de Jamon(ハムの骨)とやらも加えてぐつぐつと煮にかかった。

 

  昼食はビーフステーキときゅうりのピクルス、ハムのマリネ、赤vino少々、それにパン(マーガリン!付)キャビア。ステーキはいつものようにバターを落とした中に薄切りにんにくを入れ、塩胡椒を入れて焼き、vinoをふりかけたものに、刻みパセリをふりかけて食した。モスタッサもつけた。ハムのマリネは残り物のハム(短冊切り)に、人参、玉ねぎの薄切りを合わせ、酢と油をかけ、塩胡椒で調味したもの。Vinoシャンパングラスの半分にも満たなかったが、全体のバランスが取れて機嫌良い食事になった。食後には桃缶2切とりんご1/2(各々)を細かく切ったものを、その場で合わせてデザートにした。もうこの時点で時計は3時を回っていた。Toni Vidalと会うのは5:00だが、シャンパン屋に寄ろうと思っていたので。

 

  そうなると3:30にここを出なければならない。しかし、食後の片付け、くるみの洗髪を考えると無理なので、予定をずらした。アパートを出たところで薫がmapを忘れて来たことに気づき、すぐ取りに戻ったが、更に名刺(住所・Tel no.入り)を忘れてきたのであった。何とかなるさ、とmetroに乗り、9つ目のBogatellで下車。この辺はまたMatasの付近ともAlfonsoとも違って工場らしきものがいくつか見える、意外に閑散とした場所である。右手彼方にはSagurada Familiaが見えた。Toniが地図に落としてくれたばつ印にたどり着くと、そこは太い道路に面した大きな高層ビルで、1階が銀行、2階以上がアパートになっているらしかった。それらアパートの入口らしき木製扉は固く閉ざされており、色ガラスの向こうのconsaljeも留守中。ドアの横にはただ階数と部屋番号を書いただけの押しブザーが並んでいた。名刺を持って来ていない我々は途方に暮れて、あたりをうろついたが、やっぱりこの立派な木彫りの扉(日本の家でよくある玄関扉に似ている)が入口であるらしかった。少し待って、portarのボタンを押した時、ちょうど買い物帰りのおばさんが来た。「¿Donde esta fotografia Toni Vidal?」と聞いたらそっけなく「No,hay」と答え、続けてどこそこのBarかにinfomationがあるからそこで聞いたら、ということであった。そんな筈ないんだけどなあ。やっぱりここやねんけど。もう1度戻ってくると、車の中から荷物を運び出してドアの周りに並べているおじさんがいたので、もう1度「¿Donde esta fotografia Toni Vidal?」と聞いてみたら、ガチャガチャと鍵を差し込んで重い扉を開けてくれた。中に表札があるからそれを見てみなさいと言っていたらしかった。やっとのことでアパート内に入ることができ、ポスト(郵便受け)を見ると、3階2aToniの部屋であった。エレベーターにて3階まで。Oficinaかと思っていたが、どうもプライベートハウスのようである。おそるおそるベルを押すと、しばらく間があり、人が覗いた気配がしてからドアがそーっと開いた。大きな扉のかげに痩せて小柄なToni Vidalの姿が半分だけ見えた。

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  中へ招じいれられる。玄関を入ると、白い壁の細い廊下が奥へ続いている。壁際には腰の高さほどの白木のボックス型本棚が廊下いっぱいに置いてあり、中には本がびっしり詰まっている。この棚の上には、素焼きの壺やら貝殻他、細々としたものが置かれている。本棚の上部と向かいの壁には展示会のように台紙に貼った写真がところ狭しと貼られている。写真はほとんどmenorcaの岩の写真。我々が帰るまでの3時間余りを過ごしたのは、この廊下をずっといった突き当たりの部屋である。

 

  この部屋はまた広々としていて、ドアを入って正面に見える面は全てガラスである。そこには、陽除けと目隠しのためにサンルーフがおりていたが。このガラス戸側には低い白木のボックスが2つ合わせて台のように置いてあり、上には水栽培と鉢植えのヒヤシンス、深いボールに盛られた胡桃とアーモンド殻つきが無造作に乗っている。この台は上部がフタになっていて、外すと中にたくさんの作品が詰め込まれていた。この部屋にも、本棚とあふれるばかりの本。そしてたくさんのレコード(クラシック中心)。柱には船の舳先についている木彫りの人形(彩色)があり、上部には写真用ライトあり。

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  壁には友人から贈られたという油絵や版画(エッチング)やら、秀逸なもの多し。片面に簡単なソファが置かれていて、そこに我々は座ったのだが、その壁にもおもしろい版画あり。そんなものたちに混じって、くるみの折ったむらさき色の鶴が吊るされていた。

 

  まず、お互いに落ち着かぬながら、薫が「スペイン語は少ししかわからないが、辞書を介してなら会話できる」というスペイン語訳を見せて辞書を示した。Toniが我々に飲み物が何がいいかと聞き、cerveza(ビール)を取りにゆく間、壁の絵や版画を見ていた。版画でコバルトブルーの飛行機を刷った上に黒ペンで細密画風に書き加えたものはなかなか良い。油絵は少しクセがあるが、乞食のおじさんがうずくまっているようなかわいらしい版画他。非常に細かくて丁寧に描かれたエッチング(これは虫と人間がごたまぜになって絡み合って描かれている)など仲々魅かれるものが多い。やはり、鋭い方のところには鋭いものが集まるものだ。

  少しすると、サービステーブルに缶ビールを3本とコップ3つを乗せたものをToniが運んで来た。つまみは、深鉢に盛られた殻つき胡桃とアーモンド。ペンチのようなくるみ割りでもって割ってくれた。「こういうのは日本にない、胡桃やアーモンドは高い」というと、こちらでも高いがNavidad(クリスマス)の典型的なpostre(デザート)だ、と言い、箱入りの胡桃菓子を持って来て見せた。少し食べて見るかと進めるので1切れずつもらう。これはアーモンドの粉と砂糖・ミルク・粉を混ぜ合わせ固めたものらしく、甘いがコクのあるサクッとした歯ごたえの菓子だった。途中で、写真を見せてもらえるかと聞くと、ガラス戸側の台の上を片付けて、そこに椅子を起き、そこで見るようにセットした。写真はmenorcaのと肖像と二種あった。Menorcaのは石の写真多く、波にそぐられたもの、海のようにうねって渦を巻いているもの、波のようにさざめいているものを撮っていた。またmenorcafiestaの写真もあったが、これは6月のサンホワンの祭りだそうで、豊年を祈るものであることを絵によって教えた。

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このfiestaの写真は石の写真と比べて、どちらかというと「勢い」を出そうとしているかのようにくるみには思われた。我々がもらったカラーはがき(航空写真で山々の中に基地が見えるもの)と同じでモノクロのがあったので聞いたら、農夫達の住まいと牛小屋、馬小屋だということだった。これも絵によって図示。

 肖像写真はガルシア・マルケスを筆頭に、ホワン・ミロ、サルバドル・ダリ、タピエス、他歴史家、詩人、小説家、画家などの有名人であったが、小説家は小説家の(少し俗物的な)、詩人は詩人の(崇高な理念を持ち毅然としたような)、画家は画家の(自己顕示欲が強くてあくが強そうな)顔をしているのが面白かった。日本でもどこでも職業の顔をいうのは変わらないものだ。この後、引き続いて、我々に疲れたか?疲れたか?と何度も聞きながら、次々と作品を見せてくれた。全てはモノクローム、先ほど見た写真を引き伸ばして展示会用に台紙に貼り付けたものであった。今度のは、同じメノルカでもセピア色に染まっている(台紙がくすんだ小豆色)のも混じっている。セピアをかけたのか、と聞くと、15~20年前のものでアンティークな雰囲気を出したかったらしいことが朧げに理解された。薫が更にポスター、Menorcaハガキ(モノクロ)、展覧会と3つの仕事のタイプが違うのはどうしてか、と質問。しばらくこの質問の意を解さぬようだったが、それぞれが違うから撮り方も違ってくるということらしい。

  また、彼はmenorca出身で実際の故郷でもあり、それだけ思い入れも深いとのことだった。つまり写真がその象徴になっているとのこと。我々はスペイン語日本語の辞書しか持って行かなかったために、こちらから意を伝えるのにたいそう苦労した。学生か、と聞かれた時も学生ではなく、料理を勉強していると答えたら、わかったのかわからぬのか、怪訝な表情をしていたし、city plannerという仕事を伝えるのにも大変であった。しかし、全く言葉が通じないで途方に暮れていても、途中からはなんとかお互いにおおよその察しをつけることができるようになったようである。

  誰か日本の写真家を知っているか、と聞いた時には、こちらではあまり展示会がないのでよくは知らない、と言いながらも、日本の写真家のカタログを持って来て、ぱらぱらとめくって見せた。彼はIKKO(の宙に缶が2つ浮いているもの、を指差して、これが好きだといい、次に石元康博の石畳と敷石の写真を指して、これも、これもと言った。少し力が入っていたので、結構気に入っているように受け取った。とことん石の写真が好きなのかしら。そういえばここへ来て初めの頃、ToniWalker Evansを知っているかと薫が尋ねたら、意外なことに知らないのだった。しかし、写真家名簿をひっぱりだして来て探し、(本で見ると)大変興味深いと言った。薫はこの間の展示会の作品といい、手法といい、てっきりWalker Evansのファンなのだろうと思っていたのに、少しびっくりしていた。Toniはもう2つ、menorcaについて石が土台(基礎)になっていることと、二通りの生き方について説明した。二通りの生き方(2 memos de vivo)とは、ひとつは表面的であり、いまひとつは真面目さである。真面目さは、mas trabajo(dificil)音楽で言えば、軽いものとclasicoがあり、軽いものは踊り音楽のようなものだが、今はclasicoを聞いているということ。書き忘れたが、写真を見せてもらう前に、薫がToniに写真を撮らせてくれるか?と聞いた。自分を?という感じで少し驚いていたふうでもあったが、そこは強引な薫のこと、なんとしても撮ってやるぞ、という気合いで、坐る大きな籐椅子まで指示していよいよ撮ることになった。シャッターは開けなくていいのか、灯りはつけなくていいのか、とToniは聞いたが、薫は大胆にも写真家を(それも中以上の腕を持った)ノーフラッシュで撮ろうとしたのだった。少し意外そうな顔をしていたToniだったが、撮られるとなったら仲々堂々としたもので、大きな籐椅子に足を組んで坐り構えた。少し間があってパチリ。撮り終わった後、Toniは「Cansado(疲れた)」といい、薫はひゃあと声をあげた。何故ひゃあと声をあげたかというと、薫曰く、Toniはカメラを向けても微動だにせず、これなら1秒のシャッターを切っても大丈夫そうな程であり、何と言ってもカメラをのぞいた瞬間、向こうからレンズを通してこちらを覗いているように強い視線(それもピントぴったり)で少しもたじろがなかったからであると。一見、ひよわそうに見えるのがレンズを覗くと堂々として様になる。そのギャップにも驚嘆したのだった。謙遜家のToniのことだから、まあ、薫を試すという気がないにせよ、どうやって撮るのか興味あり、また緊張もしたのだろう。いつも自分が撮っている立場だから、撮られる時もどういう表情をしたらどういう風に映るかというのをよく知っている為、かえって困ったのかもしれなかった。この後にお返しに、と思ったのか、「お土産に」と言って我々の写真も撮ってくれることになった。機種は公明な写真家達も愛用の名器ハッセルブラッドと、15年の年季もの三脚で。今度は上部にあるライトをつけ、籐椅子に坐ったくるみと横に立った薫を、フラッシュをつけ速いシャッターでたちまちのうちに撮った。動作がゆっくりの割にシャッターを切った瞬間は写真家の機敏さがほの見えたように思った。彼はこのほかにニコンを持っていると言った。そして、我々に遠慮(気兼ね)したのか、「マミヤやブロニカも前には持っていたがハッセルブラッドの方が軽いから」と少し悪そうに付け加えた。

 

そうこうしているうちに奥さんが帰って来た。白い顔をしてメガネをかけ、金色のセミロングの髪をさらっと垂らした小柄な女性であった。Toniは今こんなことを話していた、というようにメモに書いた牛や馬の絵、くるみが書いた文字の変遷(ニ;Toni Vidalの名を薫が3種の日本語で書いたのを説明するために)を見せて楽しそうに教えた。彼の妻とも握手。「¿Como estan?(お元気ですか?)」と急に言われ、応えられなかったのが心残りであった。

しばらくするとToniが「何か食べ物を」と言いながら、盆に薄切りのライ麦パンとSobranoを運んで来た。Sobranoとはスペインの、殊にカタルーニャmenorcaの典型的な食べ物で、ピメントン漬けの豚のソーセージであり、パンに塗って食べる一見明太子に似たものである。これを切って食べなさい、と勧め、「パンはもっと要るか?」と聞いたり、Sobranoを切ってくれたり、サービスをした。この間の展覧会のときのチーズといい、今日のもてなしぶりといい、Toni Vidalらしい、地味で気の利いたサービスである。たくさん積まれた写真を見るのに、飽き飽きした訳ではないのだが、奥さんも夕飯の支度をしているらしいので、こちらもそろそろお暇しましょう、その意を伝えようとするが、その度にToniは眉間に心配そうなしわを浮かべ、「疲れたのか」と聞くものだから、ついつい長腰になった。最後に1つポスターの原画を見せてほしいと頼むとすぐには見つからないが探してみるからと言って引っ込み、少しすると戻って来て、同じのはないが3枚ある、と言った。どうもスライドにするらしく、その場でフィルムから切ってマウントをつけてくれた。それからよいしょよいしょとペンキ塗りの台のようなのを担いで来て、そこに3冊の本を積み上げ、これもまた名器と言われる西ドイツのRoleiローライ(取り外しレンズ)を上に乗せた。長い長い線を繋ぎ、コンセントに差し込み、壁の絵を外してスクリーンをおろし(これは薫がやった)、いよいよ映写。最初のは関係なく、ローマ風壁画、次に出て来たのは石段の向こうに建物が見えるので、この手法はポスターのに似ているが少し違う。次はデルタ、しかしこれも、全く同じではなく原画はTurisInformationにあるとのことで、少し角度が違っていた。3番目のものはParc Guelの天井を撮ったものだが、ポスターと違う角度から撮ったものが2(端下の方にアクセントがあるもの、真ん中に均等におさまっているもの)あった。どれも驚くほどクリアーでポスターで見る迫力であった。薫はポスター作りの内幕を見たようでおもしろいと喜んでいた。しかし、たった3~4枚の為に、足代やら映写機やらを持ち出して見せてくれるなんて。こんなに親切でいいのだろうか。我々がそろそろ帰ろうとすると、紙切れを出し、日本の住所を書いてくれれば写真を送ってあげる、と言うのだった。そして、更にはくるみが書いている間に、土産用のポスターとカラーの絵ハガキを用意してくれた。ポスターはToni自身が巻いて、端を別紙で包みセロテープで留めて痛まぬようにしてあり、あとでmetroの中でよく見たら、テープの先が折り返してあったので、薫のように几帳面だといって笑ってしまった。絵ハガキはやはりmenorcaのものだが、これはカラー版。とても雰囲気のある色が出ていて二人とも喜んだ。薫は「」やっぱりカラーの方がいいよ」と叫び、Toniに「カラーの方がよい」と言った。しかし、Toniは、カラーも好きだけれど白黒の方がもっと好きだと言って譲らなかった。それでも薫は何とか「あなたの写真はカラーの方に持ち味がある」という意味のことを伝えようとして躍起になったが、結局微妙なニュアンスを伝える言葉を知らなかった為、2~3度やりあった後諦めた。Toniは自分で撮ったカラーのフィルムを全部持ち出してきて、こんなにたくさんカラーを撮った。けれども自分は白黒の方が好きだ、と言って最後まで頑張るのだった。もしかしたら、白黒よりカラーの方がいいと言われて憤慨したのかもしれなかった。彼が言うには、カラーは易しい、けれど白黒は難しい。

夜も更けて真暗になったので、metroまで送ってあげると言って、Toniは紺のニットジャケットを羽織ってきた。悪いし、わかるからといっても承知しないので厚意に甘えて送ってもらうことにした。先ほどの白黒論議と合わせてみても、彼は穏やかそうだがかなり頑固なところがあり、あとにひかぬ子供っぽさがあるように感じた。入口で奥さんと握手を交わし、「またいつか」という言葉を聞いた後、3人で通りに出た。エレベータに乗る時も通りへの扉を開ける時も、常にToniは先に立ち、ドアを開けて待っている。その身の軽さがやっぱり写真家なんだな、と改めて思わせた。それにしても一介の旅行者に、よくもこんなに親切にしてくれるものだ。Metroのマークが見えたところで立ち止まり、握手を交わして別れを告げた。あなたのことは忘れない、楽しかった問い言葉も伝えることができないのは面映ゆかった。

 

MetroにてAlfonso Xへ。アパートに戻るともう9:00を回っていた。ずいぶん長く居たものだ。

くるみはメモを書き留め、薫はカルボナーラを作る。スパゲティが足りぬので、少量残っていたマカロニ2種を混ぜて食べる。その後、はまぐりのスープならぬあさり(Rosellona)のスープを苦心して作り、食す。貝の味はしじみに似て強い滋味あり。醤油が甘いので、またCaldoにコクがあるので味のバランスをとるのに苦労したようだが、食べて見ると難なく旨し。このあと、デザートにオレンジ1個を分け合って食べ、CCLを飲んだ。くるみも薫も疲れてしまった。薫はくるみに気兼ねしてベッドにごろ寝をしていたが、寝ていいよという間も無く、ぐうすか寝入ってしまった。只今明け方の4時。あさりのスープの作り方、他書き落としたところは明日記すことにして、もう寝ようかと思う。おやすみ。