始めてのバルセロナ 12月22日 水曜

 この部屋は壁に貼り付けてある値段表によると、夏季には4500pesetasとなる部屋のようだ。こーれで4500は高いな。アルハンブラパレスホテルと同じ値段だなんて。冬季は1350

と表示してあったが、1300の約束だから、きっちり払う。

  11時10分、チャマルティン駅発バルセロナ行きに乗るため、もう少し早く出るつもりだったが、9時20分になってしまった。階下のバールでミルク入り珈琲とトーストを食べる。

紙に包まれたバターと、小さなカップ入り桃ジャム。値段安く120pesetas。ここは

3本フォークだが、いつでも混んでいる。ラジオか何か分からぬが、歌が聞こえる。

と思っていたら、cinco-veinti cinco-mil pesetasと言っているのだった。これを

女の人数人で、節をつけて歌のように交互に繰り返している。時々、seis,とかcientoというのも混じる。へんな歌だね、と言っていたら、通りの本屋や、他の店からも同じのが聞こえてきた。年末宝くじの宣伝ソングかも知れない。

 

  もう陽が出て明るくなり始めているので、歩く人の数も多い。皆クリスマスが近いので

はしゃいでいる。10人位の女の子が輪になってフォークダンスをしているのを、囃し立てているのにも出会した。そう云えば、昨夜から通りの飾りネオンが灯り始めた。マヨール広場でも

モミの木売りや、飾り物屋さんが立ち並び、モミの木を買って担いで帰る人や、浮かれてウオ〜ウオ〜と叫び声を上げている男の子の群れ、女の子の群れがたくさん有った。

  駅近くの角のバールでサンドウィッチを6つ買い、Atocha-apeadero駅からchamartinへ

向かった。Chamartin駅は近代的で、エスカレーターで上に昇ると、広いフロアーに切符売り場、バール、壁際に土産物屋の他、インフォメーションがあり、あちこちに四角く区切られた

形にソファーが並んでて、休憩所兼待合室になっていた。薫は切符を買いに列に並び、くるみはバールに飲み物を買いにいった。バールのにいちゃんはひどくとろく、缶ジュースの値段を聞いても答えずに、ジュースを出してきてしまうし、2つしか買わないのに、3つ分を差し引いた釣りをくれたり、頓珍漢である。誤解を正そうと言えば言うほど深みにはまり、最後はとうとう紙にジュースの値段と渡したお金、釣りの値段まで書いて示してやっと分かってもらえた。

 

  無事、タルゴ特急の一等に乗り込む。途中、粉雪が舞っているところがあった。畑の

畝や山々にうっすらと積もりはじめていた。しかし、すこしゆくと、もう雪は降っていない。

複雑な地形のせいか。そろそろ昼時で、薫がおなか空いたと騒ぐので買ってきたサンドウィッチを食べる。ひとつはトマト、レタス、茹で卵の入ったもの。もうひとつはハムにヨーグルトをつけたもの。あっと言う間に全部食べきる。もっと買ってくればよかった。オリーブを摘んでいると、ボカディージョという生ハム入り堅パンホットドッグを売りにきたので、値段を聞いてふたつ買い足す。一つ140pesetasと高いが、ハモンセラーノ(当地の生ハム)がたっぷり入っている。半分だけ食べ、残りは保存。いよいよ困った時に食べようというもの。

  我々が食後のオレンジを食べていると、この列車のレストランボーイが来て、他の客の

昼食が始まった。列車のメニューは750pesetas。サラダ、スープ、メインに果物、珈琲がつく。客の前にはテーブルが出され、辛子色の制服に、焦げ茶の襟のついたジャケットを着た

ボーイ達が礼儀正しくメニューを運ぶ。結構揺れるので、こぼしそうなものだが、なかなか

巧みなものである。こういうので食べるのも面白いかなと思うが、薫は大したもんじゃないと、強がりを言っている。珈琲は銀色のポットで運ばれてきて旨そうだ。

只今、午後2時半。あと5時間半も乗り続けねばならない。久し振りの長旅のせいか、時間が

長く感じられる。青空の下、ゴツゴツした岩山や、赤い土の上に立ち並ぶオリーブの木々も

ここいら辺に来ると見えなくなり、枯れ木ばかりが車窓を通り過ぎる。薫は退屈して寝てしまった。

 

  先程は子供達3人がはしゃぎまわり、今はおばさんが香水の匂いをさせている。薫は起きてクサイクサイと言う。(そう云えば、外国の女の人はよく香水をしゅっ、しゅっとたくさん

掛けているなあ。)鼻が鈍感なのかな、とくるみが言うと、”自分らが臭いからって、、、

日本人はたまにしか臭くないのに、、”と、おへそまでくさい本人がいい気なことを言う。

薫いわく、最近貴重品入れでおへそが蒸れるのか、それとも風呂に入っていないからか、おへその臭いがするのだと言う。くさいんだ、と言ってからくるみに、ちょっと嗅いでみて、というんだから人が悪い。

 

  3時のおやつ(昼食べ残したボカディージョとオリーブ)を食べ終え、あとはBarcelona

に着くのを待つのみ。

 

  夜7時40分、バルセローナ・チェントラーレというアナウンスと共に列車を降りた。しかし、あまりにも近代的な駅なので、あれっーと思ってよく見たら、Barcelona Santsという駅

であった。もう一度乗り込む。終点のような感じだったので列車を降りてしまったのだが、

まだ乗っている客もいた。車掌はクリスマスのせいか、浮かれ気分で口笛を吹き、手を叩いている。(この車掌には列車に流れているフラメンコ歌手の名前を聞いたのだが、なかなか通じず、結局解らずじまいだった。)

  やっと、Barcelonaに着く。何だか旅行が終わったような気分だった。

 

  ペンション・マタスに着くと、3通の手紙と1通の葉書が待っていた。葉書は前の職場の上司、Kさんから、手紙はミチコ母さん、Yさん、ソフト部の同級からだった。

マタスのおっさんと再会の握手をし、部屋に案内された時、彼は、”mas grande"(さらに大きい)を連発した。3つ目の簡易ベッドが折り畳まれた、前より2畳ばかり広い部屋だった。

最近、いいホテルに泊まり慣れてきたせいか、随分と薄暗く感じられた。実際、本など読むと

鳥目になる。ともかくも広い部屋で歓迎の意を表された。(かわいくない客だ、全く)

うす赤くぼんやりした部屋の中、くるみはベッドに横座りになって、こちとらは洗面台の

明かりを灯して、手紙を読む。Yさんから返事がくるとは思わなかった。読んだくるみによると、何も暖かさが強調されているわけではないが、何とはなしに、ほのぼのすると言う。

気持ちの伝わる手紙だった。どれも2度ほど読み返したあと、レストランRUZAFAに夕食に

出掛ける。

 

  ふたつメニューがある。あちこち食べ歩いた後だと、可もなく不可もないように思う。

レバーのステーキは苦手なのに又頼んでしまった。よく分からない行動をたまに取るようだ。

HIGADOは避けること。レストランのテレビは、クリント・イーストウッドの映画を映し出している。我々のほか、ボーイ、女客ひとりがテレビに見入っている。客は少ない。

クリントという外人名でなぜか思い出したが、今日の新聞、EL PAISによると、クラシック

ピアニスト、ルービンシュタインが死んだそうだ。3ページにも亘って報じられていた。

 

  店からの帰りしな、くるみが胃から腸にかけて痛い、車中で腹部が落ち込んだまま坐って居たからかな、と言うのでひとり帰し、薫は宿のとなりで、シャンパン・エクストラ22pesetasを飲んで宿に帰る。

  なんとマタスは暖房なし、毛布1、カバー1という寒さだったが、とりあえず寝ることにする。マドリッドよりバルセロナの方が暖かいだろうが。列車疲れでぐったり眠る。

 

  悪文で嫌なのに又書くはめになってしまった。1日の記録をするには、頭と体が思うようにならない、というのは弁解で根気のなさにあきれてしまう薫だった。自分の字も大嫌いなうえ、思ったことを書くのは本当に照れくさい。これからは恥ずかしさは抑えて、文案を考え

くるみ殿に書いてもらうようにしよう。鋭い観察力と根気ある執筆態度には、常日頃、

感謝しています。本当です。寝てるから云える。不乙。

 

  日本からの手紙について〜追伸

  やはり、K嬢からは穂高の絵葉書が来ていた。皆でワイワイやりましょうと言うのが彼女

らしく、心配しているような、少しは羨ましいような様子が伝わる。同じ葉書に書かれたK氏の文では、転職の地固めが出来たらしい。彼の風景描写で、田圃の枯れた畔を歩き回って、というのもそれらしい。残りも少なくなったのでは、、というのは私たちの旅費が底をついたのをお見通しということか。

  くるみのお母さんのは、慣れぬ手紙を夜遅くまでかかって書いた風で、字面を見ただけで

君のお母さんらしい、と薫は言った。少しセンチメンタルになっている様子があちこちに伺え

、親のこころをうれしく思った。たどたどしいアルファベットや、EXPRESSで来たことからも察することができる。

  T嬢からのはソフト部からの寄せ書き付きで、仲々気が利いており楽しく読んだ。彼女が

アルタミラにそんなに思い入れが深かったとは知らなかった。

 

  Y氏のは、短い中にまとまった文章でよく日本の情勢を伝えてきており、行き届いていた。くるみの姉からはも、D嬢からも来ていなかった。