番外編 薫の夢

 

  あーあ、夢見て疲れたわ、と薫が言うので、くるみは尋ねた。どんな夢見たの。薫の夢は次のようなことであった。

  冷たいきつねうどんとレインコートを注文するねん。

ほんとうは冷たいきつねうどんと温かいきつねうどんとあって温かい方を頼まんとあかんのに、冷たい方を注文してしまうねん。そして寒いからレインコートも注文せんとあかん、と思うて。そうすると、そばからおやっさん(お父さん)が、お前そういうときは温かいきつねうどんを注文するんや。食堂でレインコートを注文したらあかん、と言うんや。だから食堂に行って、「すんません。冷たいきつねうどんとレインコートじゃなくて熱いきつねうどんにしてください。」「ああ、そうですか。わかりました(早口の三拍子で)

  旅は終わった。

 

 

3月5日土曜日 南回り フィリピン マニラ経由 

 

  朝6(現地時間)頃、フィリピンのマニラ到着の為、機内は賑やかになった。それ以前から別空港に着く度、灯りがともされるので、目が覚めていたのだが。雲海の上では東方から徐々に赤みが増してきつつあるところ。日はまだのぼっていない。機は降下する。滑るように滑走路に沿って飛び、どどーんと車輪が地面に着いた時、大勢のフィリピンがあちこちからわあーっと叫び声をあげ、一斉に拍手した。あのような何事も恐れぬ顔をした人たちでもやはり少しは無事着陸できるかと心配していたのかな。そう思うと面白くなった。あるいはこれで旅行が終わったんだ、という意味だったのかもしれない。

 

  時間が前後するが、マニラに着く前にくるみの後ろの席の日本人と知り合いになった。くるみの落としたボールペンを薫が拾いに行ったのがきっかけ。この人は松原某という名で大阪出身の音楽家である。妹の結婚式で日本に帰るところ。彼は日本の音大を出た後、ドイツへ留学したという。この費用は学生の時にアルバイトして貯めたお金で賄っている。今回の旅行の費用をひねり出すのも大変だったとか。以下時間の順序が不明なので、箇条書きで書き留めておく。

  • 音楽をやって食っていけますか、という問いに対して、彼はそれは重要な問題ですね、と前置きしてから、日本だったらN響ぐらいならやっていけますね、といい、その他の人たちは個人教授をしないと食べていかれないそうだ。所属するオーケストラが二流三流になっていくほど、先生をやる(レッスンの)時間が長くなるという。しかし、先生をやっていると金は入るが演奏会の機会が減り、だめになる。
  • 彼によると、ドイツに留学している日本人学生(楽家)7~8割は何を考えてるのかわからん。口をぽかんと開けとる。まあそんなやつでも日本人のよしみで付き合わなあかんから。この間も酒飲ませてくれゆうて転がり込んで来たんですけど、そんなのにかまっとれんから、お前勝手に飲んどれ、わし練習するから、と言うたんです。こんなときは鉄の意思持たないけませんね。
  • 心があまり良くない人(根性ばばの人)でも良い演奏をするかについては、演奏をするときは相当な緊張がある。着陸するときと離陸する直前のパイロットの脳波と同じ波線を作る。相当な圧迫感である。だからそれに耐えられるだけの頑丈な精神の持ち主でないといけない。友達で根性ばばの人がいるが、憎らしくなるほどうまい演奏をする。
  • これに関連して薫がスキャンダルで失脚した東京芸大の海野教授はどうかと聞くと、抜群に上手い。ああいう永久追放みたいにしてしまうのは日本の損失だ。本人が罰を認めて罪を償ったら、それでさっぱり洗い流して復帰させるべきだ。日本の体質はぐちゃぐちゃ非難しているうちに芸術家を殺してしまう。
  • 小澤征爾について良さがわからなかったので、理解の鍵を訪ねた。ちょっと考えてから、まず小澤征爾の顔を見てどう思いますか、と聞いた。薫が穏やかな顔をしていると言うと、そうでしょう、優しそうな顔をしているでしょう。包容力のある、そういう指揮の仕方だ。一昔前まではカラヤンみたいな怖い指揮がもてはやされたが、今は違う。人間味だ(人間性の勝負だ)小澤征爾とやっていると、演奏について何も言わない。好き勝手にやらしてくれる。でも本番になると変貌する。生命かけてやってる。死んでも譲らないという気迫で振る。それにみんな引き摺り込まれて、弾いてしまう。気が付いてみると、小澤征爾の音楽になっている。ベルリンフィルでも慕われている、彼とならやってもいいという音楽家もいる、というほどだ。小澤征爾アメリカとヨーロッパの宝だと言う。大事にされてる。もう日本人という感覚でない。小澤征爾はヨーロッパからアメリカなどに行く飛行機の中でこーんなに分厚い(と指で示して)楽譜を全部暗記してしまう。だから練習するときには楽譜を見ない。それでも、ちょっとでも音符を間違えるとすぐにわかって指摘する。途中から始める時も、何小節目からお願いしますというと、ちゃんとわかっている。それが何十何小節というぐらいでなく、百何十何小節の何拍目から、という具合にいう。それを聞いて、薫がそれじゃあ楽譜を見て音符で覚えてるんじゃないんでしょうね、というと、ああ、そうらしいですね。彼は楽譜を見ると、頭の中で音楽が鳴るという。響きで覚えているから、ちょっと違った響きになると、すぐわかる。「そのドの音は少し短い」と言う。楽譜を見ると確かにその通りである。
  • 何を買ったらいいかわからないと言うと、新譜がいいと答えた。なぜならクラシックはどんどん技術が進んでいくという。別の言葉でいうと、円熟というが。10年前の演奏と今のとでは格段に違う。
  • 練習すればどんどん上手くなると断言した。
  • でも、小澤征爾は一種の天才で、努力する人には勝てないというけど、努力する天才には努力する努力家は勝てない。小澤征爾は努力する天才だ。
  • クラシックの聞き方は指揮者の違うのを聞いてみること。最初は違いが大きい方がわかりやすい。でも聞いているうちに違いが少ないところで、違うを見つける喜びがあるという。
  • でも、レコードを買うより生の演奏を聴いた方がいい。そして、誰が間違えた、あの人は美人だとか誰が間違えそうだとか、顔を見て詮索するのもいい。自分なりの楽しみ方をすればいい。日本では間違えるとオーディオファン(日本の場合、クラシックファンはオーディオファンが多いので)が後から怒鳴り込んで来たり、金返せと言ったりする。間違いに人間味を見出す。かなり間違えるんですかと聞くと、結構ありますねと答え、酒飲んだ次の日と誰かと喧嘩してるときはすぐわかる。怒った人の息を風船に入れて、金魚鉢に入れると、毒に当たって金魚が死ぬ。刺々しい音になる。演奏会で出てくるその歩き方を見ても、こいつ旨いもの食って来たな、とか、結構貧しいものしか食ってないなということがわかる。
  • 楽家でもいろんなものを楽しめる人でなくてはいけない。今の日本の音楽家は社会に出したら、片端だ。
  • 自分はジャズを聞いている。クラシックは退屈なのが多いが。クラシックを聞いていると、自分が弾いているような気がして疲れる。ジャズなら雑音の入ったぐらいの50 年代位のものが好きだ。聞き流せる。
  • そうしたら、何でクラシックをやっているのかと聞くと、1年に1回か2回、音楽やっていてよかったなあと思う時がある。「涙出ますねえ」そのときの為にやっている。一度それを感じたら病みつきになる。しかし、プロになると、1年に何百回と同じことをするわけで、たった1回の為、何で俺はこんなことせなならんのやろ、とか、因果な商売やなあと思うようになる。
  • 大沢さんについては、(プロになったら、好きでなくなると言う人がいると話した)不幸ですね、と言い、因果な商売やしお金もうからんし、取り柄ありませんわ。
  • オーボエを吹いていると、音が額に突き刺さりハゲになる。大概のオーボエ奏者はハゲである。僕もそのうちめくらになるんではないかと心配している。
  • ピアノはわがままである。一人でやってればいいわけだから。
  • ピアノやバイオリンは小さい頃からやらされていないとうまくならないのだが、管楽器はある程度身体が発育してからでないと吹けないので、物心ついてから自分は前トランペットで今オーボエ
  • 日本の音楽学校は、花嫁学校みたいなもので、一応、技術は教えてくれるが、ドイツでは心を教える。心とは音楽をする雰囲気である。音楽は一番最後のものだ。(芸術は皆)なくても暮らせる。けれども自然の中に人間が住んでいると、音楽が欲しくなる。
  • 入るオーケストラによって人生が違う。オケに入るのは焦らん方がいい。若い時の修行は年取ってから大きな差になって表れてくる。ぐんと違う。自分は入ろうと思えば(山ほどオケがあるので)いつでも入れるけれども、もう少し磨いてからと思っている。二流~三流のオケに入ると暗い人生を歩まなあかん。日本人でも結構そういう人はいるが、年取ってくるといろいろ思って、日本へ帰りたくなったりする。
  • 彼は妹さんの結婚式で、仲間を集めてオーケストラを組んで演奏して餞けとするつもりだそうだ。

 

  こんな話をしたのだが書いているうちに徐々に話の順序がパズルのように見えて来た。

 

  この人にはクラシックのレコードの推薦版を聞いたら、紙にきっちりと楽器別演奏家とオーケストラの名前を国名入りでPIAの袋に書いてくれた。マニラの手前で、日が昇りかける朝焼けを見て、余っているフィルムはないかと聞いた。薫が撮って送ってあげると言った。

 

  東京まで一服。途中食事1回。無事着陸。機内で「良い演奏家になってください」と握手をして別れを告げた。(演奏会の案内を送ってあげるとのこと)スチュワーデスの写真を撮って最後に機を離れる。

  新しく記入した入国カードを出すと、前に記入した写しのカードに記入して出せばいいと言う。しばらく待ってバックパックを受け取る。くるみのは黒いオイル汚れが随分ついていた。その足で税関前の長い列に加わる。申告用紙に名前など書いたが必要なし。人間ができたような係員を選んだが、実際笑って聞き出した。「何ヶ月行っていたのか」と聞かれたので「5ヶ月です」と答えると、パスポートをめくって「ああ、920日からですか、長いですね。何やってたんですか、そんな長い間。」と言った。「観光を兼ねて料理の勉強を」「酒は何本ですか」「2本です、ここに入ってるんですけど、出しましょうか」「土産物は高いものないですね」「ええ、2500円のセラミカとか」くるみがバックパックを開けて見せたが、中を覗かなかった。「はい、いいですよ」この列左手端には、動・植物検疫所があった。(のちの話だが、ここにハムなど提出すると検疫ではなく没収されるという。)

 

  山のような荷物を押して、成田の到着出口を出る。向こうには見知らぬ日本人のおばさんたちが心配そうにこちらを見やっていた。黄色人種の中に入っていく−−−−−

 



 

 

 

 

3月4日金曜日 イラン首都テヘランにて、トランジット

  4時ごろ、イランのテヘランに着いた。機内が明るくなったのと、空がもうすでに白み始めていたのとで起きてしまった。実は時差があるので、現地時間では7時ごろだったようだ。

 

   昨夜途中から機内がむんむんと蒸し暑く、乾燥して喉が渇いた。朝食は1時間ほどしてから出た。朝にしてはボリュームがあったが、昼食を食べられないと思ってか、皆よく食べていた。カラチ着。

  相変わらず、というか、往きのトランジットの時以上に暑い。外に出ると、まるで真夏のような陽射し。相変わらず出口のガラス戸には現地人が多勢、何をなすともなく張り付いていた。

 

  PIAのバスでinn(宿屋)へ行き、だだっ広い食堂でタダメシを食べる。前に机が並べてあり、ナンとごはん、それに上にかけて食べるものが6~7種類ある。ミートカレー風、チリ風、中華風。それを各自好きなだけ皿に盛り付けて食す仕組み。最後にオレンジジュースを飲むかと聞くので、5人分注文すると、だいぶ遅れ、立ちかけてから来た。飲むと、あとで1杯1$払えという。話が違うと押し切って出る。

 

    2軒のホテル内土産物屋でくるみが物色。パキスタンの典型的衣装(上着とだぶだぶズボン)を探すが、インドでもなく、トルコでもない中途半端な柄、色調のもの多し。街で見かけるようなのは全く置いていない。インドのように思い切りのよさもなく、トルコのように色鮮やかさもない。土産物用として安手のものを作り、売れなくて時代遅れになった感。ひとつまあまあのスカーフ(安手の薄地を絞り染風にしたもの、紺と水色)があり、店の鍾乳洞は3$と言ったが、そのあとも2$以下に下げぬのでやめた。鍵をもらって部屋に入る。小ぎれいだが照明暗し。芝生で一服。飛行機疲れが続いている。又、土産屋に入ったが合点がいかず、部屋に戻る。しばらくすると、「行く時間だ」と呼びに来た。バスで待っていると、婆さんと男の子の物もらいが離れず、「Hello、Hello」を繰り返していた。

 

  空港で手続き。Boarding passを受け取り(Trangitにて出国カードなし)、荷物のX線検査、身体検査を終える。X線では、フィルム、カセットテープとも大丈夫だとのこと。

   Check inの際は、手荷物()1個の重さを測られただけだった。大2個あったが。身体検査では、足の付け根まで探られた。待合室で、またくるみが土産屋物色、収穫なし。今日はやたらフィリピン人が多く、皆手に手にオーディオ機器(ラジカセなど)を持ち、列を作るときも焦りまくったり、ズルをしたりで、散々迷惑した。何とか飛行機に乗り込んだが、満席で前の席は得られないという。仕方なく荷物を足元に入れてみると、なんとか入った。しかし、足を上げておっちん坐りをして、極めて窮屈な夜を過ごす。

 

    深夜、バンコック(タイ)に到着。とにかく、飛行機の南回り線はあっちこっち立ち寄りながら進んでゆく。隣の女性が降りたのでやっとゆったり坐れるようになったが、それもつかの間、また客人あって、元の席に追いやられた。(人に聞いた話だが、PIA(パキスタン航空)では手荷物の重さは20kgを超過しても、人によって料金が半分になったり払わなくてよくなったりする。)

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3月3日木曜日 パリ オルリー空港発 パキスタン、カラチゆき

 

  快晴

  9時に目覚め、10時過ぎに宿を出る。荷物は、くるみがおばさんに言葉足らずに置かせてくれるか、と言った。奮発して3F渡したら、にこりと作り笑いをして「Merci」(歯切れ良くメルシッ・・)という感じで言った。

 

  駅前、橋のカフェで朝食。あまり美味しくないカフェオレ()とクロワッサン。溜め置きのせいか珈琲がすっぱい。駅近くの公園を歩き、ODEONに向かう。公園でやっていた中国展は、11.5Fと高くて入れず。相変わらず、道を歩いていると、センスの良い女性が目立つ。サンジェルマンにゆき、ボンマルシェ百貨店でオイル差しの口を探すが、思っているもの見つからず。疲れ切って空腹になって、昨夜の中華料理店へくり込む。定食ふたつと焼きそばと茶を飲食。歩いて宿に戻り、荷を担いで空港に向かう。地下鉄はオルリーレイル駅のエスカレーターで上へ上がると、もうバスが待っていた。間違えて国内線の方へ行ったが、国際線のビルはsud()の方であった。手続きは次の順序。

  1. No.4エールフランスカウンターでチェックイン。カラチまでのボーディングパスを受け取る。バックパック2個を秤にかけ渡す。薫18.6kg、くるみ20.0kg
  2. 1フロアーに上がり、ゲートナンバーが出るまで待つ。
  3. 残金を米ドルに両替。
  4. 残った硬貨で、くるみが地下マーケットにて買い物。
  5. パスポートコントロール
  6. No.50ゲートでPIAの搭乗手続き(シートナンバー)身体・荷物チェック。

 

  機に乗り込んだが、バッグが大きく横に寝かしまたぐことができない。スチュワートに頼んで、中央部前の席に移る。無事フランクフルトも越えた。食事も終えてから、乗客の東洋人(確かK國人)と話したこと。

  • 日本政府に反感を持っている人が多い。
  • 日本政府の歴史は侵略の歴史である。
  • 攻撃を受ければ核でたたく用意がある。昔とは違う。
  • しかし、若い世代では交流によって根強い問題を解決してゆきたい。
  • 本の学校で反政府の示威行動を行うかもしれない。これまでには学生運動の先導もやったという話だ。
  • 気持ちはわかったが、こちらからすると少し自国をよく捉えているきらいもあった。

例えば

  • 軍事費について(北の防衛)
  • 自国は侵略もしていないし、軍備への道も歩んでいないということだった。

 

疲れたのでもう休む。

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3月2日 モンパルナス墓地、曇り

  曇り。

  モンパルナス南でmetroを降り、フランスにしては安手のcafé(キャフェー)で朝食。金のなさそうな客が多いので決めた。カフェオレよし。クロワッサンふつう。

 

  すぐそばのモンパルナス墓地に入り、寒空のもと散策。人少し。くるみは思ったよりお墓自体は大きかったらしい。全体は青山墓地より小さく樹木も少ない。デスマスクあり、棺おけあり。四角い地下道への入口のようなのもあった。

 

  道ゆくおばさんにボードレールの墓を聞いたら、わざわざ遠くの方まで歩いて連れて行ってくれた。彼の墓には3~4人の名前が並んでいて、どういうことかよくわからなかった。とくに趣きなし。死んだ後は関係ない。しばらくゆくとサルトルのもあった。頭のあたりの石が変形の五角形をしていたので少し面白かった。

 

  墓地を出てモンパルナスをゆく。露天市場で八角とハーブを買う。安食堂見つからないので、オデオンに歩いて戻り、昨夜の中華ベトナム料理屋に入る。やはり量少ない為、のちのち空腹になって困った。歩いてルーブル百貨店を探したが見つからず。薫は肩と風邪の疲れでだいぶ参っていた。

 

  しかし、最後なのでmetroラファイエット百貨店にゆく。オ・プランタンより少しおばさんぽい。良いもの見つからず、くるみ焦る。オ・プランタンにゆく。良いものはあるが、持ち金より高し。スカーフも見たが結局買わぬことに決めたようだった。百貨店で見ていると、なるほどフランスの女性はシックなものをうまくコーディネイトしている人がかなり多い。自分を知り、全体の見え方(つま先から頭のてっぺんまで歩き方も含めて)を考えている。これは見習うべき。ファッションは近視眼ではいけない。2人ともかなりうらぶれてmetroでオデオンへ。前にパリに来た時何度も入ったステラ上の中華料理店に入る。味一歩上手、量多し。客も常連が多い。Carneも切れてサンジェルマンを歩いて帰る。途中コルクだけの店屋があった。オーストリッツそばで菓子とビールを買ってホテルに帰る。菓子は、飛行機用。

 部屋で、旅中で最後の乾杯をして、薫はベッドに入った。そしたら、くるみが何かしら絡んでいさかいが起こった。どうも外国服に関する気持ちの整理がつかなかった為らしい。人はいろいろ考える。機嫌を直して洋梨を食べ、寝ることにする。12時消燈予定。

3月1日火曜日 帰国準備 パリ、オーステリッツ泊

 曇り、時々晴間。昼は思ったほど寒くなし。

 

  9時過ぎ、Paris Austerlitz着。道路を越えた脇道にあるHotel de la Gareに宿を取る。値段表示が複雑でうまくおばさんの話と合わないので2度ほど尋ねたら怒り出した。どこでもパリはそうだ、とか言っていた。彼女が書いた値段をさしただけなのだが。けちがついたが、荷が重く、2日のことなので辛抱することにした。

  一服して、昼頃買い物を兼ねて、食堂探しにゆく。St.Lazare駅まで。Au printin オ・プランタン百貨店で、予定のトレーナー、靴などを見るが、余りいいのがない。運動靴では、ナイキやアディダスが場を占めていた。大カバン(旅の荷物を入れる)では、Lancelのものが1万5千円くらいで良いものだった。他のも結構高く、8千円以上、もちろん高いものは随分する。

 3階では、Orient展をやっていた。(中国・インドの敷物、食物) 狙いは、El Corteも同様だが、物はこちらの方が大分良いものを(日本に来るより良いものを)置いている。腹が減ったので、オ・プランタンの3館を巡ってレストランを探したが、仲々見当たらず、久々にふらふらと空腹を味わう。やっと見つけた3階のスナック+レストランもしけてて高い。

 

  まずいパンのサンドイッチにカフェ・オレで昼食にした。ランセルを買い、男性服の館でfabric en Italieのポロシャツを薫用に買う。くるみによると、好きな絵の色合いに似ている。くるみも自分の服を探すが、安価では気に入るもの見当たらず。Metroでオデオンへ。サンジェルマンの1~2本南の通りにある中華料理屋で夕食。店員はベトナム人で料理もサイゴン風のものとか混ざっている。値安く、味に不可はないが、少なめでややこなれていない。愛想はよし。客我々のみ。Metrohotelに帰る。ランセルに物を詰めたりしてから、くるみは日記を書いて、薫は寝た。カバンはブランド物でない方がよかったが、値が安くて丈夫そうでセンスのいいのはこれしかなかったんよなあ、ほんとに。これより高くてダサイのもあった。おしまい。

2月28日月曜日 バルセロナ最後の食事は AGUT で。

 

  昨夜は最後の夜なので、ゆっくり寝よう(早く寝よう)と思ったのに、ひとつアクシデントがあったので手間取ってしまった。

 

  大きい方のモロッコスツールをシーツにくるんでしまおうとしたら、羽の生えた、クミンシードに似た虫がたくさん出てきたのだ。この虫はスツールの裏に当て布として貼ってあるもののうちウール100%のもののみを好んで食べているようであった。幸い皮を食べる虫でなかったので、スツールとしての機能に支障はないとは思うが。とにかくよくぞ食べた、と言うほど頑張って食べてある。ウール布と皮との間には糸の他に接着剤も使ってあるが、もうある部分ではこれが全く効いていない。ズタズタであった。もう夜も遅いというのに、ドアの外に出てパンパンはたき、虫で追い出した。

 

  けれども、知らぬ間に薫のシェットランドセーターにまでついているのであった。こんなことがあったので、起床の時間を9:00にずらした。15分すぎ頃起きる。スペインのこのアパートで、最後の朝食をいつものようにする。相も変わらずトスターダとCCL、その後薫は主に台所を、くるみは風呂場や床掃除をした。この時既に11時。これからまたスツールをしまおうと思い、くるみが(薫がやるのをひどく嫌がるので)手でパンパンはたき、よく見たら布の裏、まだ破れていないところにもたくさん虫のサナギがいるのであった。布を切り取って薫が買ってきた防虫剤を入れてしまう。やっとのことで全ての掃除が終わり、おっさんに言いにゆく。

 

  おっさんは紙にさらさらと少し気取った人の書く文字で項目を書きつけ、値段を書き保証金から差し引いた。4350ptsのみもらう。12時も30分を回ったので、あわててMetroに乗りカタルーニャBANCOにゆき、両替。フィアンサの返金が思いの外少なかったので、全てフランスフランにする。この後、他々の項目の意味及び金額が理解できぬのでCameliesに戻る。

 

 我々が「エイジェンシーはフィアンサを全て返してくれると言った」と言うと、おっさんは二人に睨みをきかせ(たつもりで)、先ほどの紙を持ってき、興奮してどもりながら語気激しく説明し、「4350ptsを返してくれ、そしてエイジェンシーに言って返してもらったらいい」と言った。おっさんの声は震え、どもり、泣きそうに甲高い声であった。しかし、我々は金を返してしまったので、ptsが足らず返せないと言うと、「4350ptsは私の金だ」と言って紙にサインまでして「エイジェンシーに言って、これも返してもらってくれ」と言った。少し考えたのち妥当だろうという結論に達し、「わかったから」と言い謝った。おっさんは両手を広げて歩いて行きながら「いい、いい、誰もが皆私にいろいろなことを質問する」と言った

 

  。MetroにてJAIMEIまでゆき、AGUTヘ。既に客は満杯で2階の待合所で少し待たされたが、ようやく席につくことができた。今日はドアを入って正面奥の部屋の右手席。ここにもたくさんの絵やら絵皿が飾ってある。どれも地味な渋いもので、それが陰気になりすぎていないのは、この店のモダンな作りと釣り合っているからである。また、若い人を多く起用しているのも成功していると言えるだろう。

  薫はconsome con yama(卵黄入りコンソメ)parillada dos salsas(焼きもの 2つのソース)を頼み、くるみはsopa de brou(パスタ入りスープ)entrecot buey(牛のステーキ)。今日はパエージャもソパデペスカドもない。スープはどちらもさっぱりしてあっけない。くるみのにはショートパスタと人参少々入っていた。パンは柔いが酢の匂いがするので参った。また、海産物の焼きものは、大正えび、長いはさみつきエビ、小イカ2~3匹、大イカ1匹、白身魚2切が皿のぐるりまで盛られ、魚にはパセリとオリーブ油がかかってこんがり焼き色がついている。二種のソースとはアリオリかと思ったが、1つはマヨネーズ(自家製か)1つはトマトのみじん切り(muy Rinas)あるいはあろしたものと、玉ねぎの入った酸っぱいソース。ソースはあまり大したことなし。675ptsと値段も高いが、材料代だろう。素朴は新しく、魚の身もぷりぷりしていてまずまずだが、他人のを見ている時ほど驚きでない。

 くるみのは肉の煮込みと思ったが、少し厚い肉の少々骨つきの牛肉のステーキ、ポテトフライ付き。まずまず。デザートは取らずに、チップ20pts(5pts×4)を置く。結構良い店だから奮発したのだ。しかし、薫は若いボーイ長風の青年にAGUTと白地にピンクの糸で入ったナプキン(ボーイ、ウェイトレスが肩にかけていて、これで椅子のパンくずを払う)を譲ってもらえないかと言い、タダで肩にかけてもらった。このとき薫がくるみに「出ろよっ!」と怒鳴ったのがきっかけで、少しくるみが気分を損ねた。ごめん。

 

  この間見逃した動物園へゆく。この動物園はシウタデラ公園の一角にあり、入場料は大人150pts。中に入ると公園の続きのようなつくりで、木立があり、芝生があり、植え込みがある。この合間に動物がいる小屋やコンクリートの囲いがある。鳥はほとんど放し飼いに近く、孔雀がコンクリートの道に出てきていたり、草の中で休んでいたりする。その他ハトあり、スズメあり、白黒チェック赤いトサカの鶏あり。フラミンゴあり。これらの鳥たちは全然人間を怖がっておらず、また外に飛んで行きもしないところを見ると、相当のんびりと暮らしているのだろうという気がする。この動物園の中の木は、公園のと違って、これらの鳥たちの為にか高くそびえている。頭の大きな(その割におしりのやせた)土色の水牛がいた。これはピカソエッチングにあった牧神によく似た顔をしていたが、これらは見る人と同じ高さに、少しの溝を境にして突っ立っているのである。決してたいそうな柵やら金網やらを施していないのが日本と違う。象などは、大きな図体をして向こうのほうからのしのしと近づいてくるので、こちらに来そうで怖い。その他動物たちは非常にリラックスしてくつろいでいる。むしろ、我々が彼らを見るというより、彼らが我々をいっせいに見るのである。なんやあいつ、という目である。ひとつも神経症的になってない。

 

  この動物園の中には、白ゴリラの他にイルカという呼び物がある。イルカは別館の水族館にいるのだが、これがまた変わった建物である。

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丸い建物で、中にイルカの泳ぐ丸い水槽が3階にわたって深く筒状になって吹き抜けている。それを各階の窓から覗き見るのだが、これがすごい迫力なのだ。水の中心に細い泡が線のようになって揺らめているところを見ると、どうも海流に似せて水を回転させているようである。その中を大きな白い腹とグレーの体色のイルカが窓に沿って泳いでくる、。意識してか、しないでか時々窓に向かって顔を向け、水の上に飛び上がったりする。テレビなどでイルカショーを見たことがあるが、あれはあくまで水の上から見た姿でしかないが、ここのは目の高さにイルカの顔がある。とても魚とは思えぬほど(もちろん哺乳類だが)大きな図体と小こい半開きの眼が我々に向かって突き出されるのだからすごい。思わず誰もがそれに圧倒される。

  薫とくるみもまあ、うわぁ、ぎゃあ、ひゃあ、ふぇえと幾種もの叫び声をあげながら感嘆した。水の色がそうなのか、それともガラスの色なのか、マリンブルーに染まった水に、上から差し込む光がちらちらと波の模様を落としている、と思ったら、大きな1.5m四方ほどの大きなスクリーンに巨大なイルカが突如として現れる。そのすごさは何度見ても飽きることがない。水槽の底には砂が敷いてあり、そこにシーソーやら木の棒やら遊び道具が置いてある。水の底の公園といったかんじ。このイルカの周りの水槽の中の魚もまた変わっていた。幾種もの魚だけでなく、幾種ものイソギンチャクも一緒に入れられてうごめいているのである。白い虫(先端に赤い眼)のごときものもおれば、ゲゲゲの鬼太郎の髪の毛のような白いザンバラに垂れたもの、それだけがいく十個も入っている水槽もある。

  またあるところでは大きな亀が水の中からこちらを向いて、しきりに黄色い前足で泳いでいる。陸に上がった亀は見たことがあるが、水の中を泳いでいるのを見るのは初めてである。前足はボートのオールのように平たくなっていて、それをぱたぱたと上下させて泳ぐ。その顔も半開きながら獰猛そうでまさに生き物というかんじがする。大きな大きなランゴスタ、うつぼ、おこぜ、それらが岩の上、あるいは植えられた枯れ木の合間にうごめいている。ガラスを1枚通しているが、確かに生きている、という気がする。それだけ迫力があるということだ。水藻だけでなく、枯れ木や、岩やイソギンチャクがまるで海の底のような具合になっているのもアイディアだ。もう一度、イルカを見ていると、係員が来て、イルカのショーを4時からやるから、と言い、地下にはピラニアとかの魚がいると教えてくれた。地下を一周してから時計を見ると4時を過ぎていたので、慌ててショーをやっているところを探し、駆け足で飛び込んだ。

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  ショーはこの水族館から15mほど離れた建物でやっており、全面がプールになっており、そこに2匹の若いイルカがいて尾でビーチボールを飛ばす芸をしていた。これもまたすごい迫力で、ボールを水面に浮かべると、そっと回り込んでいきなり激しい速さでボールを打つものだから、ボールが水しぶきをあげて客席の方へ飛び上がる。客の方もいつボールが飛んで来て頭や顔に当たるかわからぬので、皆ひやひやである。飛んで来たボールは、子供が拾ったりして投げ、また水に浮かべるという仕組み。我々が行った時はこの終わりの頃で、何回かこのゲームをやったあと、イルカが係員のお兄さんと飛び上がって握手を交わし、その後で「Adios! Adios!」という声とともに、水からヒレを出してパタパタと振りながら去っていったのも面白かった。

 

  この後、鳥の館に行く。ここの鳥は皆ガラスの部屋に入れられ、一斉にぎゃあぎゃあと鳴いている。原色のオウムが多い中で、スズメを見つけた。このガラス部屋はユニークで、本当の電線と短い電柱でもって止まり木の代わりになっている。ここに本当のスズメがいつものように止まっている。その横の箒のように八方に開いた揺れる線の上には、小鳥たちが気持ちよさそうに眠っている。巣も変わっていて、茶色や緑色の陶器が底をくり抜いて壁につけられているという工夫もある。仲々よい。

 

IMG_5409.jpegIMG_5410.jpeg 白ゴリラは猿類だけの建物におり、頭でっかちで鼻の潰れた顔をこちらに向けては、にぃ~~っと歯をむき出して愛想笑いをするのであった。別の同居のゴリラは、皆の目を引こうとしてタイヤを転がして来てはそれに乗り、ベースやギターを弾く真似をする。もう1匹のゴリラはひとりで腰掛けていると思うと、まもなく腹を突き出し踏ん反り返って2本足で歩く。3匹はそれぞれその行動を飽きもせず順繰りに繰り返していた。さすがに、虎、ライオン、熊は、大きく深い溝を開けて彼方におり、ヤマネコ類も檻の中であった。その他珍しいところでは、ビーバーが水の中をすいすい泳ぎ回っていた。